マルチネは、コトバには意味を伝達する機能があることを前提としながら、コトバを支配する原理として「経済性」があると主張しました。経済性とは、コトバのしくみは人間ができるだけ労力を使わなくて済むように、効率的に出来上がっているという性質のことを言います。
本書p.169より
普段私たちが話すコトバは、長い時間をかけて移り変わっていくものです。
その変化の動機の一つとして、「経済性」について指摘されています。
具体例を挙げると、日本語の「は行」は、pa, pi, pu, pe, poで発音されていたのが、ファ、フィ、フ、フェ、フォ→ハ、ヒ、フ、ヘ、ホという変化をたどっています。
これは、両唇をしっかりと閉じなければいけないpの音が、だんだんと唇の閉じ方が甘くなることで音が変化していったと考えられています。
(筆者は本書中で、このような音韻変化を端的に表す例として母(haha)はpapaだったという例を挙げていて、密かに感動しました。)
経済的になればなるほど、意味の伝達が難しくなるジレンマ
音韻変化以外に見られる経済性について、考えてみました。
より少ない道具(つまり語)で、話者の意図を伝えられたら、それは経済的であるといえるでしょう。
ここで思い当たったのが、ベトナム語の人称詞です。
若い男性のことを指すanhという語、自分のことを指すこともできるし、相手のことを指すこともできます。なんなら会話に参加していない第3者を指すこともできます。
そしてこの語は「お兄さん」という親族名称としても用いることができます。
この語が第3者を指す場合、「その」のような指示詞を付加することはできますが、付加しなくても間違いではないです。
第3者を指しながら指示詞を付加しない場合、これは指示紙を付加した場合と比べると経済性が高いと言えそうです。(もともと指示詞をつけるのが正解だがつけずに用いられるようになった、という変化があるというではなく、あくまでも2つの形式の比較上の話です。)
しかし、anhは「私」にも「あなた」にもなりうるので、「私」なのか「あなた」なのか「彼」なのか(「兄」なのか)は、前後の語や文脈から判断することになります。
これが外国語の文章で推測するのがなかなか難しいのです。
ある語を母語としている集団にとって経済的で便利だから用いられる形式が、その集団に属さない人間にとってはその便利さがわからないどころか、かえって意味の理解の妨げになるということは往々にしてあります。
外国語と関わるということは、そのようなジレンマの中で常にもがき苦しむ宿命を背負っているのかもしれません。